2-194-KN118

東大寺と興福寺

 旧友のT君は“貧寒として”という言葉がお気に入りだった。田舎の寂しげな風景を司馬さん(司馬遼太郎)が紀行エッセイでそう書いていた。ぼくも司馬さんのファンで歴史小説などはずいぶん読んだがT君とは逆に司馬さんのこういう表現は“誇張”あるいは“大仰”という感じが強くてしてあまり好きではなかった。司馬さんの紀行エッセイと言えば「街道をゆく」がすぐ頭に浮かぶがぼくは読んでいない。「街道をゆく」シリーズのなかに「奈良散歩」という紀行があってぼくには縁が深い奈良だがこれすら読んでいなかった。それがこないだなにげなく見ていたNHKの番組表に『新 街道をゆく 「奈良散歩」』とあるのを見つけて仏像が出てこないはずはないと踏んで見てみようと思った。ちなみに「奈良散歩」は「近江散歩」と合わせて文庫一冊に収まっているが「近江散歩」も番組になっていてこちらはおととしだったか見ていた。「奈良散歩」の放送は3月12日にあったが3年前の再放送だった。その内容に印象深いものがあったから書いておこうと思い立った。

「奈良散歩」がテーマとしたのは東大寺と興福寺だった。多武峰談山神社も出てくるが文脈から言って興福寺に含めて良い。期待した仏像は残念なことに映ったのは興福寺国宝館の板彫十二神将、天燈鬼・龍燈鬼、十大弟子、阿修羅だけで、嫌々とまでは言わないものの、奈良なんだからやはり入れとかないとね、という感じで申し訳程度にまことにあっさりしていた。

 番組で語られたのは東大寺では修二会(お水取り)だった。ぼくが知らなかったいろんなことが出てきてなかなか見応えがあった。写真家の入江泰吉さんも登場して司馬さん流の大仰さも気にならないほど頗る良かった。それとその年の修二会で和上(わじょう)と呼ばれる練行衆(行をおこなう坊さんたちをそう呼ぶ)の最上位を勤めたお坊さんが良くて、修二会のクライマックスと言える達陀(だったん)という行法について、ふしぎですねぇ、あれなんなんでしょうね、とまるで当事者ではない他人事のように言い、行法中に読み上げる過去帳のなかでもっとも有名な「青衣ノ女人(しょうえのにょにん)」を紹介したときなどは、なまめかしい、だの、みんながそれを聞きたくて固唾をのんで待っているときに咳払いでもしたら怖いでしょうね、だのと言ってその話しぶりが最高におもしろかった。話し上手と言っていい。そう言えばこの和上を勤めたお坊さんを以前「通りがかりの者です」に登場させていた。やはり修二会について書いた2021年9月の三回から成る記事の最終回の中でのことで、そのときは咒師(しゅし)という練行衆の上から三番目の位置だった。

 ところで、司馬さんは修二会は不合理なものだと「奈良散歩」で書いた。司馬さんのいう不合理とは文明と文化のちがいのことで、文明が世界中のどこにおいても通用する普遍性があるがゆえに合理的であるのに対し文化はある特定の場所でしか成立しないがゆえに不合理であるがしかしその不合理が文化であり不合理でなければ文化ではないと司馬さんは言うのだ。そして案内役の女優さんは、司馬さんが東大寺の修二会は不合理を承知で行っていると書いているのですが・・・、と和上を勤めたお坊さんに言った。なんということを訊くのだ。しかしお坊さんは才覚者だった。どうなんでしょうね、不合理・・・なのかな、とちょっと首をかしげたあと、東大寺の修二会は荒行だとよく言われるがそれで体調を崩すことはないしむしろ持続可能で集中力を切らさない工夫がいくつもあって上手くできている、と答えて合理不合理については語らなかった。信仰は文明でも文化でもない次元の異なる人間の営みだった。
 また司馬さんは、東大寺には兜率天がある、と書いていた。
兜率天(とそつてん)とは仏教で世界の中心にある須弥山(しゅみせん)という山岳の遥か上空にあると言われている天上界のことで天人が法要を行し弥勒菩薩が如来になるための修行をしている。
東大寺の修二会は兜率天で天人がおこなっていた行法を見た実忠(じっちゅう)という生没年すらわからない正体不明の坊さんが地上でもやろうと大仏開眼の752年にはじめた十一面観音菩薩に祈る悔過法要で爾来1270年余り今日まで一回も途切れることなく続いている。この兜率天の1日は地上界の400年にあたるという。ということは東大寺の修二会が今年で1274回続いているというのは兜率天の天人にすれば3日と4時間26分の間の出来事ということになり、すると天人からみると地上では3.6分に一回という超高速で修二会をやっていることになる。時間など存在しないような兜率天にこのような計算はなんの意味もないが、天人は人間とはなんと忙しい生き物だと思っているかもしれない。番組の最後で和上を勤めたお坊さんは、兜率天はあるんでしょう、あると思いますね、とはっきりした口調で語った。

 一方の興福寺について司馬さんは権力者が建てた大寺院の悲哀というよりその惨めさを書いた。司馬さんにその気はなかったのかもしれないがぼくにはそう見えた。興福寺は明治元年の神仏分離令の煽りをまともに食らった代表的な名刹だった。寺は消滅し阿修羅像も無著・世親像も仏像はすべて打ち捨てられ五重塔はたったの25円で売りに出された。坊さんたちははじめから信仰などなかったかのように自ら僧侶であることを辞め高位の者は自動的に春日大社の神職に成り下位の者は行く当てもなく途方に暮れて職を探した。興福寺の再興が許されたのは明治14年だったという。つまり興福寺の沿革は明治維新で不連続となった。興福寺と談山神社を語る司馬さんの“誇張”と“大仰”もまた全開で鼻についた。番組に出ていた興福寺の坊さん、貫首(かんす)と称する興福寺の住職さんは阿修羅像を美術史家のようにその起源から解説し、2018年に再建成ったばかりの中金堂を、興福寺の1番中心の宗教施設です、と国会議事堂でも案内する観光ガイドような口調で唯物的に紹介した。ちなみにこの住職さんは敏腕マネージャーらしいのだがいつだったか別の番組では西金堂内陣を再現した仮講堂の内部を、非常に贅沢な宗教空間です、と学者のような言葉で誇らしげに言っていた。あれっ、いつの間にか司馬さん風に書いているような気がする。
 こんなこと書いているがぼくは興福寺というお寺が決して嫌いなわけではない。今まで何度拝観したことか。きっと東大寺より多い。
それに興福寺には三条通を挟んで猿沢池の向かい側、赤いのぼり旗が林立する石段を登ったところに、運慶の父親康慶が彫った不空羂索観音菩薩坐像をご本尊とする南円堂という線香の煙絶えない民間信仰の霊場があって、興福寺は決して歴史上の寺ではない。 


 兜率天はあると断言するお坊さんと金堂を宗教施設と呼ぶお坊さん、そこに東大寺と興福寺の違いがあるような気がする。司馬さんは、この寺の僧の顔つきは世間の僧にくらべて数段いい、と東大寺のお坊さんたちを胸が空くような言葉で褒めた。また、私ども日本人には大なり小なり旧興福寺の僧たちの気質がある、と心の奥底を覗かれて思わずギクッとしてしまうようなことも書いた。このふたつばかりは誇張でも大仰でもなかった。 2026年5月13日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)



 ホーム 目次 前のページ 次のページ

ご意見ご感想などをお聞かせください。メールはこちらへお寄せください。お待ちしています。